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0823-21-2508

亀山神社の御祭神
亀山神社に鎮まる神々

菅原道真をお祀りしていれば「天満宮」、 徳川家康をお祀りしてあれば「東照宮」と、 お祀りされる神様によって神社の種類が分けられますが、当社は主祭神として 品陀和気命(応神天皇)を含む三柱をお祀りする 「八幡宮」といわれる種類の神社です。 詳しくは以下をご覧下さい。

主祭神
 帯中津日子命 (14代仲哀天皇 タラシナカツヒコノミコト)
 息長帯日売命 (神功皇后 オキナガタラシヒメノミコト)
 品陀和気命 (15代応神天皇 ホンダワケノミコト)

相殿神
 高御産巣日神 (タカミムスビノカミ)
 奥津比賣命 (オクツヒメノミコト)
 奥津日子命 (オクツヒコノミコト)
 萬幡豊秋津師比賣命
   (ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)
 久久能智神 (ククノチノカミ)
 火之加具土神 (ヒノカグツチノカミ)
 宇気母智神 (ウケモチノカミ)
 天吉葛神 (アメノヨサヅラノカミ)
 伊賀古夜比賣神 (イガコヤヒメノカミ)

【補足】
相殿神』と記しましたが、現在の社殿には「相殿」は存在致しません。 以前の社殿では、本殿の横に「相殿」が建てられ、そこにお祀りされていた神々です。 現在は、同じ一つの本殿にお祀りしております。

主祭神

応神天皇は、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた第4皇子で、第15代の天皇です。 つまり当社は、応神天皇(西暦400年前後)と、そのご両親をお祀りしているわけですね。
神功皇后や応神天皇がどのようなお人柄であったか、どのようなご功績を残されたのかを知るには、 古事記や日本書紀を読むことが一番です。
これらの記紀神話では、「何も無い世界から神が生まれ、 日本という国ができる」という まさに本当の神話の世界から、実際に古事記や日本書紀が書かれた頃の現実の世界まで、 一貫して話の中心には、天照大神に代表される天皇家の祖神(ご先祖さま)から初代神武天皇 そして代々の天皇が いらっしゃいます。

天皇家というご一家が、神話の世界から現在までとぎれることなく家系が続いている、というこの事実(お話)は、 命の継承・親子の絆を具体的に表すものであり、 我々日本人の素直な感情の一つで有る「先祖崇拝」を象徴するものであると思います。

日本の神話や神様に関するわかりやすい本が各出版社から出ていますので、 御祭神の説明については、「古事記」や「日本書紀」等の本文の掲載が筋ではありますが、ここでは、
学研「エソテリカ事典シリーズ②日本の神々の事典」 (監修 薗田稔 茂木栄)
日本文芸社「日本の神様を知る事典」 (監修 阿部正路)
を引用または抜粋要約し説明させていただきます。 なお、文書引用については、学研並びに各執筆者の先生方から快諾をいただき、心より感謝申し上げます。

息長帯日売命 (神功皇后)

熊襲反乱の平定の途路、仲哀天皇9年に天皇が亡くなると、神功皇后は天照大神、住吉神等の託宣を得て、三韓の攻略に出発する。 熊襲の背後に新羅が控えていると予想したからである。
戦前の国定教科書(初等科国史)には、
「音に聞く日本の船、神国のつわものにちがいないと思って、 王はすぐさま皇后をお出迎え申し上げ二心のないしるしに、 毎年必ずみつぎ物をたてまつることを、堅く誓いました。(中略)  この後、熊襲がしずまったのは言うまでもなく、百済や高句麗までもわが国につき従いました。」
とある。 神功皇后が実証史学的に実在の人物であるかどうか証明されていないが、 高句麗王の広開土王の石碑文にも倭人を撃退した記述がされている。
また、神功皇后の遠征への出発地であった長崎県壱岐島では、全島に神功皇后にちなんだ伝説があり、 勝利を祈った北端の勝本には、神功皇后を祀る聖母神社が鎮座している。 今でも、壱岐には神功皇后の「足跡」が残されているのである。
皇后は筑紫に凱旋すると、御子を産み落とした。 これがのちの応神天皇である。
(以上、学研「エソテリカ事典シリーズ②日本の神々の事典」茂木栄より引用)

九州の熊襲は日本武尊(やまとたけるのみこと)に平定された後、しばらくは平穏を保っていたが、またまた謀反をたくらんでいるという。 当時、朝鮮半島南部に任那という国があって、日本と親交を結んでいた。
任那は、新羅と百済の両国に面し、常に平和を脅かされていた。 特に新羅は任那を我がものにしようと 画策するがなかなか思うようにならない。 そこで熊襲をそそのかせて日本を混乱させて、任那への援助を妨害せんとしたのである。
これを知った神功皇后は仲哀天皇と共に、熊襲征伐への行動を起こした。(中略)
熊襲の諸将はことごとく降伏して、第1の目的は達成したのである。かくして次なる新羅進攻の時期を迎えた。 いよいよ出陣を決したとき、 神功皇后は次のように、 全軍に厳しい軍律を課した。
「小敵とても甘んずるな、強敵にもひるむな、狂暴に抵抗するものは許すな、 服従するものは殺すな、敗退するものには厳罰を処す」
と言う厳しいものである。
かくして全軍が新羅に上陸すると、新羅国王は上陸軍の偉容に驚き、また恐れて、戦わずして降伏した。 軍兵はこれをとらえて殺そうとしたが、神功皇后は「軍律のあるのを忘れたか」と、 兵士を叱りつけ、新羅国王を救った。
新羅国王は深く感じ、「たとえどんな事があっても、 永久に朝貢を欠かしません」と誓約した。 ここに目的を達した神功皇后は、軍勢をまとめて凱旋したが、まもなく男子を生んだ。
品陀和気命といい、後の応神天皇である。
(以上、日本文芸社 「日本の神様を知る事典」より引用)

三韓の攻略に出発して目的を達したことから、「戦の神様」であるとか、凱旋中に無事応神天皇をお産みになったことで、 「安産の神様」と言われます。

品陀和気命 (応神天皇)

日本書紀に、東国の蝦夷の朝貢があったこと、吉野宮に行幸した折に国樔(吉野川上流の住民)が 酒や土地の物を献上したこと、吉備の国を分割・編成して子らに治めさせたことなどが記されている。・・・(略)・・・
国を統一した建国の天皇である。 ・・・(略)・・・
応神天皇母子の時代は統一国家の強化、三韓文化の流入など 国家体制の確立していく時期に当たる。 歴史家の多くが応神天皇期をもって 歴史時代が始まると説く所以である。
(以上、学研「エソテリカ事典シリーズ②日本の神々の事典」茂木栄より引用)

応神天皇は、率先して外国の文明開化を取り入れた、大和朝廷の傑出した文化人指導者である。・・・(略)・・・
応神天皇の治世は、日本に新たな文学、産業などの文化を招来させたすぐれた元首である。 すなわち、わが朝廷に使節としてきた百済王の子阿直岐が文学に精通し、 経典を修めていたので、応神天皇はわが子稚郎子の師とした。
ある日、天皇は阿直岐に向かって、「汝よりすぐれた学者がいるか」と問うと、 「王仁(わに)と言うすばらしい学者がおります」と答えた。
そこで天皇は王仁を招くことを決め、ただちに荒田別、鹿我別の二人を百済に派遣した。 応神天皇の招きに応じた王仁は、百済・新羅から縫工・織工・鍛工、船匠などのすぐれた 技術者を伴って来日(西暦400年)し、携えてきた論語10巻と千字文1巻を朝廷に献上したという。
王仁はそのまま日本に帰化した。またその頃の大陸は呉の国の時代で、 産業・文化にすぐれていたので、 応神天皇はこの国の織物・裁縫の技法も導入しようとして、 阿知使主、都加使臣の2人を使節として派遣した。 王は喜んで使節を迎え、その申し入れを受け入れてくれたので、阿知使主ら一行は、 養蚕、紡績、織物、 裁縫などのすぐれた技術者を連れて帰った。
(以上、日本文芸社 「日本の神様を知る事典」より引用)

とあります。先進文化文明を積極的に取り入れたことから、学問の神様とも言われます。

相殿神

『相殿神』と記しましたが、現在の社殿には「相殿」は存在致しません。 以前の社殿では、本殿の横に「相殿」が建てられ、そこにお祀り されていた神々です。 現在は、同じ本殿にお祀りしております。
主祭神との区別を判りやすくする為に、現在でも相殿神という呼称を使っています。

天吉葛神

与曽豆羅ともいいます。日本書紀第五段一書第三によれば、 伊弉冉尊(イザナミノミコト)は火神軻遇突智(ヒノカグツチ)を生んで火傷に苦しみながらも、 土神埴山姫(ツチノカミハニヤマビメ)と水神罔象女(ミズノカミミツハノメ)とともに、 天吉葛神を生んでいます。
(以上、神社新報社 日本神名辞典より引用)

宇気母智神

食物神で、日本書紀には保食神(ウケモチノカミ)とあります。 日本書紀一書第11によれば、天照大御神の兄弟の月夜見尊(ツキヨミノミコト)が、 天照大御神の命 で保食神のもとへ降りていった時に、 保食神は自分のくちから出した海山の数多くの食物を 月夜見尊に奉ります。 しかしこれを見て月夜見尊は、「穢しきかな、いやしきかな、寧(イズクニ)ぞ口より吐(タグ)れる物を以て、 敢えて我に養(ア)うべけん」と、 怒りにまかせて剣を抜いて保食神を殺してしまいました。 天にかえって報告したところ天照大御神は激しく怒り「汝は悪しき神なり。隔て離れて住みたまふ 」 と言っています。ゆえに月と太陽は顔を合わせなくなり交代で天に現れるようになったと言います。 殺された保食神の体から牛馬・蚕・稲をはじめ五穀が生まれたとあります。 月と農耕の深い関係を、この神話は物語っているといえます。
(以上、國學院大學日本文化研究所助教授 茂木栄)

奥津日子命 奥津比賣命

大年神の系譜段に見られ、 大年神と天知迦流美豆比賣との間の第1子と第2子。 奥津日子・奥津比賣を合わせて一神と数えています。先代旧事本紀では奥津彦命、奥津姫命と あります。 「奥津」に関して記伝では「奥津は地名か」とありますが、 「奥」を沖 (空間的に遠い場所・時間的に最も遅いの意)と言った説もあります。
(以上、神社新報社 日本神名辞典)

久久能智神

樹木をつかさどる木の神。『古事記』では久久能智神、『日本書紀』では句句迺馳(ククノチ) と記されています。 『古事記』に依れば、伊耶那岐・伊耶那美命(イザナキ・ イザナミノミコト)は、神婚による国生みの後、 神々を生みます。その12番目に生まれたのが、 木の神・久久能智神です。
このときに生まれた神々は自然神としての神格を表す神々で、 海の神(大綿津見神オオワタツミノカミ)、 風の神(志那都比古神シナツヒコノカミ)、 山の神(大山津見神オオヤマツミノカミ)、 野の神(野椎神ノヅチノカミ)等々です。 神名の「クク」は茎のことで、草木の幹の立ち伸びるさまを表し、 「チ」は男性の美称であると、 本居宣長は言っています。
『日本書紀』ではこの場面を、「次に海(うなはら)を生む、次に川を生む、次に山を生む、 次に木の祖(おや)句句迺馳を生む、次に草の祖(おや)草野姫(カヤノヒメ)を生む、 亦は野槌と名く」と記しており、 句句迺馳を木の生みのおやと表現しています。 このことを折口信夫は、 「山川に生えている眺める樹木ではなく、建築用材の木の霊魂」を 表す意図がある、 と言っています。
(以上、國學院大學文学部教授 茂木栄)

高御産巣日神

『古事記』では高御産巣日神、『日本書紀』では高皇産霊尊と記されています。
『古事記』において八百万神(ヤオヨロズノカミ)に先駆け、 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、 神産巣日神(カミムスヒノカミ)とともに最初に 高天原に成りました(現れる)神です。 また、「造化三神」の一神であり、この造化三神と この後に高天原に現れる宇摩志阿斯訶備比古遅神 (ウマシアシカビヒコジノカミ)、 天之常立神(アメノトコタチノカミ)を加えて 「別天津神(コトアマツカミ)」とも称されます。
記紀神話の中で多数の神話伝承を有しており、「高木神」「高皇産霊尊」等の 別名でも登場しています。
記紀神話は、その内容から天照大御神を中心とする「高天原系の神話伝承」と、大国主神を 中心とする 「出雲系の神話伝承」に大別できますが、同じ造化三神の一神である神産巣日神が 「出雲系神話」に登場するのに対して、高御産巣日神は「高天原系神話」に多数描かれ、 神話伝承の多くに天照大神と同様に主要な神として位置づけられています。
L 神話伝承の中で、「天照大神、高御産巣日神の命を以て・・・詔(ノ)りたまはく。・・・」 と言った記載が何度か有り、天照大神と共に諸神に「命じる立場の神」として描かれています。
『日本書紀』でも高御産巣日神の記載は『古事記』同様に多数あります。 「神武天皇即位前期」には、 大和の国の鳥見山中にて神武天皇(第一代天皇)自らが 高皇産霊尊を祀(マツ)る「顕斎(ウツシイワイ)」 の記述などもあることから、 古来より、天照大神と同様に皇室を守護する主要な神として 理解されていたことが伺いしれます。
江戸時代の国学者・本居宣長は、高御産巣日神・神産巣日神の働きは、 万物を生成する「むすひ」 の働きをつかさどる神であることを主張しています。
(以上、神社本庁 神保郁夫)

火之加具土神

『古事記』では火之迦具土神、『日本書紀』では火神軻遇突智(ヒノカミカグツチ)と記され、 『古事記』に火之夜芸速男神(ヒノヤギハヤオノカミ)、火之炫毘古神(ヒノカガビコノカミ)、 『日本書紀』に火産霊(ホムスビ)と言う別名を持っています。 いずれも「火」という文字が用いられ、火の神であることは明らかです。
「カグツチ」とは、火が燃える様を表すカグと神霊を意味するチからなっており、別名 「ヤギハヤヲ」は、 ヤギ=焼きと、ハヤ=速い、男神を表すヲで、瞬く間に物を焼いてしまう 火の勢いの強さを表します。 「カガビコ」は、火が輝(カガや)く様子を神格化した男神(ビコ)で、 いずれも火の燃える様子からつけられた神名です。
「ホムスビ」は前述の神名と趣が異なり、ホは火、ムスビは物を生成する神秘的な力を表す言葉 (この頁の高御産巣日神の欄にもあります)で、火が何かを生み出す神秘な力を持っていることを 示しています。 『古事記』に語られる神話によれば、国生みを終えて次々と神々を生み出した 伊耶那美命(イザナミノミコト)が、 火之加具土神を生んだときに陰部を火傷し、 それが原因で亡くなってしまいます。 そのため、火之加具土神は嘆き悲しんだ伊耶那岐命 (イザナギノミコト)によって 十拳(トツカ)の剣で首を切られて殺されてしまいます。 ちなみにそのとき剣に付いた火之加具土神の血から八神が、切られた体から山に関係する 八神がそれぞれ生まれています。
『日本書紀』によれば、伊弉冉尊は火神軻遇突智を生んで火傷に苦しみながらも、 土神埴山姫(ツチノカミハニヤマビメ)と水神罔象女(ミズノカミミツハノメ)を生み、 火神軻遇突智は土神埴山姫と結ばれて稚産霊(ワクムスヒ)を生みました。 この稚産霊からは、蚕と桑、五穀が生じたとされてます。 火の神の殺害は火の制圧を表すとも言われます。そこから多くの神々が生じたことに関しては、 諸説ありますが、五穀が生じたことは焼き畑農耕と関係があると考えられています。
母神を死亡させ自身も殺害されながら多くの神々を生じさせるという神話の筋を見れば、 「破壊」と「生成」という正反対の力を持つ火の力がこの神によって表されていることは 確かでしょう。制御しなければあらゆる物を焼き尽くしてしまう火、 しかしそれを上手く利用することによって、作物や道具を生み出すことができる火。 そのような火の力を体現しているのが、火之加具土神なのです。
(以上、國學院大学講師 島田潔)

萬幡豊秋津師比賣命

高御産巣日神の娘で、天忍穂耳命 (アメノオシホミミノミコト)の妻となり邇邇芸命を生みます。 「萬幡」は多くの機織・ 「師」は技師・「豊秋津」は上質の布とする説と、 稲が豊かに稔ると解く説があります。
(以上、神社新報社 日本神名辞典)

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