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お祭りの変遷
自然の恵みへの感謝と自然の力への畏れ
それが日本人の祭です

時代とともに生活の形は変わっても、日本には変わらないものがあります。
この地球という星の中で偶然にも温帯地域の島国として国が成った日本には、春夏秋冬の四季があります。 切り立った山に降った雨は岩や土で浄化されて、安心して飲むことの出来る美味しい水となりました。 この豊かな自然の恵みを、日本人は「神」と呼んできました。
人の力を越えたものへの畏敬の念は、現代の日本人の心の中にも根付いています。

神社創立以来、現在までに三度例祭日の変更がありました。 そのすべてが、明治以降の暦の変更によるものです。 ここでは、亀山神社の秋祭り(例祭)の行われる日の変遷をご紹介致します。

例祭日の変遷

第一期 旧暦8月15日

由緒のページにも記載したとおり、古文書では、

筑紫国宇佐島より後国姫島に御遷座、人皇四十代天武天皇の御宇 白鳳八年八月十五日巳刻に姫島より安藝国栃原村甲手山に天降り給ひ、後、 人皇四十二代文武天皇の御宇、大宝三癸卯年(703年)八月十五日、 呉宮原村字亀山(素は入船山と称せしも御遷座の時亀山と名付く)の地に鎮座せり とあります。

これにより、明治23年(1890年)現在地に移転される迄の亀山神社のお祭りは 旧暦 8月15日に毎年行われていました。 宮原村、呉町、和庄村、荘山田村等の呉浦の人達はこぞって参詣し、神事も行いました。
「とんぼ(米俵を積んだ俵みこし)」や「はやし」は室瀬・中川・坪内(以上宮原村)、 呉町、鹿田・和庄(以上和庄村)、郷・山田・庄(以上荘山田村)の九ヶ迫から特色のあるものが出され、 華やかさを競ったそうです。

そして御神輿渡御の神事も伝統が厳しくまもられておりました。
荘山田村の若衆が御神輿の前を、 和庄村の若衆が後部をかつぎ、 神社所在地ということで、宮原村の若衆は「輿付き」 と言い中央部に頑張ってかつぎ廻ったといいます。

御旅所(神社下を流れている宮下川の下流で川水が二分流するように掘り、 其の中央部の干上がった洲、現在清水ヶ丘高校脇から救世軍、YWCA脇に見えている川です)に 渡御せられる折、宮下新開(現防衛庁総幹部付近)の 「濱ん殿」(濱の宮)」で休憩されておりました。 「濱ん殿」は、四本の幟を立て注連飾りをした清浄な一角で、 幟には呉町の「おごうさん=奥さん」筋の家の中で、大山中、石田、池田の四軒の 家名がそれぞれ染めぬかれていたそうです。
そして濱ん殿での休憩の後、十五夜満潮頃、お供舟ただ一艘で御旅所へ渡御される おごそかな神事が行われておりました。

呉町は本来宮原村で「藝藩通史」には「宮原村の民十の中八は農にしてその餘は魚商なり。」 とあり、経済力もかなりあったようです。 その経済力により、お祭り翌日の16日も、呉町のみが、町を挙げて、 波止場の側の姪子神社の祭事を営んでおりました。

呉町の人はこれを「うら祭り(裏祭り)」と呼び町民あげて参加したそうです。 16日夜は亀山神社の神主が、榊の木を、海岸に用意した大釜で沸かした熱湯にひたし、 海に向かって祓い、其の年の大漁や商売の収益をお祈りをしていました。
「裏祭り」の神事です。
田畑に出て働いている人々にとって、町方の喜びのどよめきは暮らしの差を見せつけられ、 後に宮原村を二分する争いに発展しかかったそうですが、明治19年海軍接収で呉町は消滅してしまいました。

同時に亀山神社も現在地、清水通りの丘陵地に移転御鎮座となりました。

第二期 10月17日

明治23年現在地移転後は10月17日が例祭日となりました。

旧暦があまり使われなくなってきたことや、時代の変化とともに「祭りだから」と 言っても若衆達が仕事を簡単に休めなくなった事などから、 旧暦8月15日に近く、神嘗祭当日で国民の休日であった、 10月17日を例祭日に選んだのではないかと思われます。

海軍進出により、全国各地から人口が流入して呉の町の人口は現在の倍、 約50万人近かったと言われます。定かではありませんが、 現在の呉の祭りに欠かせない「ヤブ」は、この頃からではないかと思われます。 全国各地から集まった人たちの、各地の色々な慣習、祭りの作法等々が融合し、 呉独特の、鬼の面をかぶって神輿をお守りする「ヤブ」という形が できあがってきたのではないかと思います。 (神道の祭式や作法の教科書には、「ヤブ」という存在はありません。)

しかしながら、海軍進出による氏子の四散と、全国各地からの流入人口が九割を占める、 といった地方都市としては少々異常?な状態が、終戦の昭和20年8月まで続き、 それ以後は終戦による4分の3に近い人口が流出する等、 めまぐるしい変遷に伝統の殆どを失ってしまったのも事実です。

第三期 10月10日(体育の日)

昭和43年10月から10月10日(体育の日)が例祭日となりました。

これは氏子側から、
例祭日を参詣しやすく、 行事への参加がしやすい休日に変えて欲しいという要望が高まった事と、 また氏神さまと氏子崇敬者との一体感を高め敬神崇祖の気持ちを多くの人に持って欲しいという 神道教化の目的
から10月17日に近い祝日をお祭りの日と選んだわけです。

御旅所は、呉市の中心街の現れんが通りの一角となりました。
敬神の念厚い婦人会による舞踊の奉納が人気を集めています。 昭和50年迄は例祭日の夜、土でつくった玉の中に福紙を若干納め、 参詣者がお互いに玉を替へ、福を交換しあう「玉替え行事」を行っていました。
男女間の厳しい時代、唯一の、声を掛けあえる行事として賑はっておりましたが、 「玉すべてに空のものは設けぬ」という通達や、 ジャンケン等でギャンブル化する等の理由もあり、取りやめとなってしまいました。
私が子供の頃(昭和40年代)は、境内のあちこちで、10数人が輪になって玉替えを行っていたのを覚えています。
(確かに、じゃんけんに勝った人が玉を総取りしていましたので ギャンブルといえばギャンブルだったのかもしれません。 しかし声をかけあって大変活気があったのも事実です。)

第四期(現在) 10月第2日曜日

平成12年10月より、10月第2日曜日が例祭日となりました。
平成12年より、いわゆるハッピーマンデー法が成立したことにより、 10月10日が祝日(体育の日)ではなくなってしまったからです。

現在でも約10万人の参拝があり、青年会や子供会による奉納行事も盛んです。 御神輿渡御の神幸祭においては、お囃子、稚児行列など青年会や子供会の参加があり、 呉の町の中心部約2キロの道のりを歩きます。御旅所は変わらず現れんが通りの一角です。
現社会情勢から考えると容易に想像できますが、 平日になった10月10日にお祭りを続けても、お祭りのために学校や仕事を休むことは難しく、 子供会・青年会の参加が不可能となります。
と言った理由から、10月第2日曜日をお祭りの日と変更いたしました。

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