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神社まめ知識(神道全般)
神道全般にわたる豆知識をご紹介します

神様のこと

下に書いた6項目について、 学研 エソテリカ事典シリーズ②『日本の神々の事典』 から引用・抜粋して掲載しております。 引用については、 学研さま並びに執筆者の薗田稔先生(京都大学元教授・秩父神社宮司) には快諾をいただき感謝申し上げます。
すべてこのページ内に記入しておりますが、 下の各項目をクリックしていただくと、その部分までジャンプします。
天津神、国津神の部分は結構長くなっておりますので、ページ印刷して読まれた方が読みやすいかもしれません。
どうぞご覧下さい。

神々の坐すところ

 我が国には八百万(ヤオヨロズ)の神々が存在するという。それは、いに しえより我々を取り巻く山川草木に宿る「神」であり、これに親しみや畏れを感じ、敬うのが本来 の姿であった。
 現に我が国の神道は自然崇拝やシャ-マニズムの原形を多く残しており、そこに宗教の 普遍的形態を見ることができる。
 また、この「神」は「目で見ることができない」と言うことが重要な特徴である。目に見えぬ 大自然の霊力であるが故に、人は神を畏れ、神に祈った。そして特定の山や川や石や樹木は、 神の坐(イマ)す場所・神が宿る物(依代ヨリシロ)とされ、御神体とされたのである。

神が出でます  神幸

 神幸(シンコウ)とは、神霊が社(ヤシロ)から神輿や御羽車などに 遷(ウツ)って、祭りの際御旅所(オタビショ)に渡御(トギョ)する事を言う。
 祭礼では、街を練り歩く神輿を介して神霊と人々が交感する。それは、神の威光を盛りたて、 神と人が一体となって行動することを象徴した神聖なる行事なのである。

祝詞と言霊

 古くから、言葉には霊が宿るといわれてきた。そして、その力によって 人の幸・不幸が左右されるとされた。言葉の持つ霊力、それが言霊(コトダマ)である。
 古代人は言葉に願いを込めつつ発することで、その願いが実現すると考え、 言葉に対する畏怖(イフ)の念をもっていた。そして神道における祝詞(ノリト)も、 この言霊の力を支えるものとして成立しているのである。
 祝詞の語源は諸説あるが、本居宣長は、「宣説事(ノリトキゴト)の略で、神に申し上げる 言葉」であるとしている。また折口信夫は、「のりとごとの略で、神の言葉や神を祀るときの 言葉は、宣(ノ)る場所(宣り処ノリドコロ)が必要であり、宣り処における口誦文 (コウショウブン)がのりとごとである」としている。
 いずれにせよわが国においては、神々に豊穣を祈願し、時には災禍や罪穢れが祓われるよう 念じ、また神威をたかめるために、祝詞と言霊は発せられてきたのである。

禊祓い

 古くから、言葉には霊が宿るといわれてきた。そして、その力によって 人の幸・不幸が左右されるとされた。言葉の持つ霊力、それが言霊(コトダマ)である。
 古代人は言葉に願いを込めつつ発することで、その願いが実現すると考え、 言葉に対する畏怖(イフ)の念をもっていた。そして神道における祝詞(ノリト)も、 この言霊の力を支えるものとして成立しているのである。
 祝詞の語源は諸説あるが、本居宣長は、「宣説事(ノリトキゴト)の略で、神に申し上げる 言葉」であるとしている。また折口信夫は、「のりとごとの略で、神の言葉や神を祀るときの 言葉は、宣(ノ)る場所(宣り処ノリドコロ)が必要であり、宣り処における口誦文 (コウショウブン)がのりとごとである」としている。
 いずれにせよわが国においては、神々に豊穣を祈願し、時には災禍や罪穢れが祓われるよう 念じ、また神威をたかめるために、祝詞と言霊は発せられてきたのである。

天津神

 日本の神々は、昔から今にいたるまで、数多く認められてきている。 その神を総称して「八百万(ヤオヨロズ)の神たち」とか、「八十万(ヨソヨロズ)の群神」とかいわれてきた。 八百万や八十万とは、もちろん数を限定するのではない。 八は、古来「末広がり」のめでたい数とされ、両方とも神々が数多いことを讃えていう言葉である。
 古く『万葉集』の歌などには、いたるところで「天地の神」と歌って神々を総称しているが、 この数多くの神々を分類して早くからいいならわされてきたのが、天津神(アマツカミ)と 国津神(クニツカミ)と言う大別である。
 平安時代の延長5年(927)に完成された法律書『延喜式(エンギシキ)』に載る古代の祝詞 「大祓詞(オオハラエノコトバ)」には、
 天津神ハ天ノ磐戸ヲ押拡キテ、天ノ八重雲ヲ伊頭ノ千別ニ千別キテ聞食サム、
 国津神ハ高山ノ末低山ノ末ニ上リマシテ、高山ノイホリ低山ノイホリヲ揆別キテ聞食サム。
 とあって、天津神は天上はるかの雲の上におり、 国津神は高い山低い山の重なる地上の山中にあって、イホリ、すなわち雲や霧のなかに鎮まるとしている。
 和銅5年(712)になった日本最古の『古事記』や養老4年(720)完成の最初の国史『日本書紀』 等の創世神話にも、その冒頭に「天地初発」”天地(アメツチ)初めて発(ヒラ)けし”とか 「古天地未剖」”古(イニシエ)に天地(アメツチ)未(イマ)だ剖(ワカ)れず”とある。 古代人が世界を観る場合には、「天」と「地」、すなわちアメとツチないしはクニとの多くふたつの対応を そのすべてと想像して、まず天と地に神の存在を認識したと考えてよい。 記紀神話には、やがて個別の神々が誕生するなかで、「海」の神々や「黄泉」つまり地下の神々など、 いわゆる他界ないし死後の世界も登場してくるが、 アメはアマ(海)に通じ、海上遙かな「常世(トコヨ)」や「根の国・底の国」も他界と通じて、 当初は「天」と「地」とにそれぞれ包含されて、未分化であったとも考えられる。
 古く唐の時代に中国で使われていた熟語で、日本でも使われる「天神地祇」という言葉があるが、 これも訓読みをすると、アマツカミ・クニツカミとなり、要するに神々の総称である。
 中国で「天神」といえば、天空の神や、太陽・月・星の神々、宇宙の中心や生命をつかさどる神々、 風や雨の神など文字通り天上の自然神であり、また、「地祇」といえば、 大地の神、戸口・かまど・門・道・土地の神々、山の神々などをいう。
 ところが、日本でいう「天神地祇」の場合は、「天神」といっても別に天上の神々ではなく、 「地祇」といってもとりたてて地上をつかさどる神々ではない。 つまり中国から「天神地祇」という言葉は借りているが、その分類は日本独特のものなのである。
 ◆天孫系の神と出雲系の神
 それは何よりも、この日本列島の各地に土着した古代の人々が、生活を営むなかで、きわめて具体的な 現象を頼りに、神々のはたらきを見つけて祭ってきたことにもとづいている。 したがって「天神」といえども、中国の場合のように最初から普遍的な日月星辰という天空の神々ではなく、 まずは「高天原」と言う、地上の平原を天上はるかに想像しての、 具体的なイメージの世界にこそ出現する神々なのである。 そして当然のように「高天原」を想定した古代人たちは、自分たちが生活する地上を「中つ国」とし、 地下や他界を「根ノ国・底ノ国」とした。なぜ「中つ国」かというと、現に生活する世界として、 それが空間的も時間的にも真ん中にあることが、何よりも安心のもとだからである。
 ところが、それではこの「中つ国」という地上の世界で誕生する神々が「地祇」すなわち国津神かというと、 必ずしもそうではない。伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ)と言う男女の天津神が生み出し た地上の世界で、さらにこの両神のはたらきで誕生する神々は、すべて天津神に属する。 たとえば、大綿津見神(オオワタツミノカミ)という海の神や大山津身神(オオヤマツミノカミ)という山の神でさえ、 天津神に属している。 しかし、山の霊・海の霊の神格である2神は系譜的には天津神に連なるが、 天上世界よりみた場合は、地上に先住する国津神の性格をすでに帯びているとみられるのである。 日本の神話では、一口に「天神地祇」といっても、天と地という普遍的な領域に属する神々というわけではない。 たとえ地上の神ではあっても、「高天原」という具体的な世界の神々がさまざまなはたらきで生み出したと言う出生の 譜が理由となって、その神は「天津神」に分類されることもある。
 他方の「国津神」は(詳しくは「国津神」の欄をどうぞ)須佐之男命の系譜からはじまる。 この神は天照大神と月読命(ツクヨミノミコト)とともに伊耶那岐命が生んだ神として天津神に属するのだが、 その親神に反抗したうえに、姉の天照大神に反逆した罪で高天原から地上に追放された結果として、 国津神の系譜をたどることになる。
 しかも日本神話ではこの須佐之男命が天降(アマクダ)る地上の国が出雲国という特定の地方である ことから、国津神は「出雲系」の神々ということになり、それに対応して天津神には、あらためて 「天孫(テンソン)系」あるいは「大和系」の神々という性格が加わることになる。
 ◆大和系の天津神
 「天孫系」とは、いうまでもなく高天原を治める天照大神が、中つ国を治めている「出雲系」の 大国主神に国譲りさせて、 その孫神にあたる日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)を 地上に派遣するという国譲り神話にもとづく表現である。 そして、この天孫を、鏡・玉・剣の三種の神器(ジンギ)やお供の神と共に、 九州の日向(現宮崎または鹿児島地方)にある高千穂の山に降臨させるが、 やがてその子孫が神武天皇以来の大和朝廷を築くことになるところから 「大和系」という天津神のもう1つの名が加わる。 そこで、おのずから古代天皇家が、高天原にも地上の伊勢神宮にも鎮まる天照大御神を祖神とし、 しかもその前後に連なる高天原の神々にもさかのぼることから、 これらを「天孫系」とも「大和系」ともいいならわしてきたわけである。
 ◆別天津神とは
 別天津神(コトアマツカミ)は、文字通り天津神の中でも特別な神々ということである。
 『古事記』神代の巻の冒頭にあって、宇宙の始まりを天と地が初めて開けたときとして、最初に 「高天原」という天上に想定された世界に出現した5柱の神々を、その後に出現する天津神と区別して 「別天津神」というのである。
 しかしながら、『古事記』冒頭の別天津神と次に登場する神代七代という神々は、 純粋に神話伝承の記録とはいえないことも確かである。 つまり、古代人が実際に祭りの場で生き生きと集団的想像力を発揮して 朗唱し語りだした神々の物語というよりは、彼らなりの思索が加わって、 神話的に構想された観念の所産でもあることを認めねばならない。
 その判断の1つには、造化の三神をはじめ、別天津神5柱、神代七代という意図的なくくり方に、 明らかに中国の3・5・7という聖数を看(ミ)るからである。 また七代最後の伊耶那岐・伊耶那美の登場まで、ほとんど神々の羅列に等しく、 全体に説明的で豊かな物語性に乏しい。そして何よりも、神々の名そのものが多く観念的で透明なのである。
 こうしたところから、従来の学者や識者には、この冒頭部分について、太安万侶(オオノヤスマロ)など 当時中国の思想を身につけた編纂者が政治的意図をもって神々を創作し、一連の体裁をととのえたことを 強調するものが多い。ところが実際は、必ずしもそうとは断じがたいのである。 そこでその理由はどういうことか、その点を指摘しながら別天津神を説明することにしよう。
 ◆儀礼そのものの神格化
 そのためには、順序として別天津神を論じるに先立って、まず神代七代の最後に登場する伊耶那岐・ 伊耶那美と言う男女2柱の神が聖婚して国土と神々を生み成すという「修理固成」の段を、 あらかじめ取り上げておかねばならない。
 この物語は、まぎれもなく太平洋全域に分布する天父神と地母神の結婚による世界創世説話に属する。 いわば本物の神話伝承であることもさることながら、その内容からして明らかに儀礼性豊かな表現に満ちている。 要するに、かつては実在した祭りとして古代人たちが定期的に儀礼的再現を繰り返してきた、 その内容が神話に語り継がれたものにちがいない。『古事記』の前段と違って、この神話だけは 『日本書紀』や『古語拾遺』などの記載にも、その細部はともかくほぼ同じ内容が見られるのも、 これこそが生きた神話だったからである。
 以上のことを確かめたとして、ひるがえって別天津神の神名に注目すると見えてくるものがある。 結論から先にいうと、それは、まず天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が「天ノ御柱」に、 高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)が「伊耶那岐命」に、 神産巣日神が「伊耶那美命」に、それぞれ対応しており、 いずれの造化神も後段の国生み・神生み神話を先取りして、いわば歌劇の序曲風にその主題を 観念化した結果の神格を示すということなのである。
 天之御中主とは、その意味からして、確かに天の中心を主宰する宇宙神である。しかし、天御柱もまた 世界の神話に登場する宇宙樹や宇宙軸と同じもので、これを中心にして初めて万物が生まれ コスモスが成立する。天御柱を神話的に象徴すれば、天之御中主と言う神格となりうる。 また高御産巣日と神産巣日とは、ともにムスヒを神格化した対遇神である。 そしてムスヒは産巣日とも表記するように、万物を生み成す霊力を意味する。 ムスは「苔ムス」のように生える、生じる、生まれるの意であり、 ヒはビ・ミ・キと同じく神秘な力をさしている。この2柱の産巣日神は、 伊耶那岐と伊耶那美が国を生み神を生む神秘な生命力を抽象化して観念された神々だと、容易に考えられるのである。
 別天津神5柱の神々は、思索的に観念された、いわば原理神であることは否定できまい。 その意味で、純粋に神話の伝承というより、一種神学の所産に近いことも確かである。
 しかしながら、ここで銘記すべきは、それが決して識者たちの勝手な創作ではなく、本来の国生み・ 神生み神話を深く思索した成果だということである。つまりは、古来日本人が構想してきたのは、 原初のカオスからコスモスがなるプロセスとして、まず万物が生じる神秘を植物の発芽や男女両性の 生殖の神秘としてとらえたのであって、その生命の霊力を神々のムスビ(産霊・魂)と畏敬してきたのだと かんねんしたからこそ、最終的に原理神として、宇宙軸を体現し万物を生み成す造化の神々を 別天津神としたのであろう。

国津神

国津神とは、律令時代にいう「天神地祇(テンシンチギ)」のうち「地祇」に当たり、古代以来の祝詞で はおおよそ地上の山中に鎮まる神々を指すことは前述「天津神」にて説明した。
 しかし、古代中国でいう「地祇」に比べると、 季節や方角ごとに整然と配置されて地上をつかさどるというのではなく、 日本のそれは天津神とともに国内各地に散在する古来の有力神社の祭神にほかならないことも、 すでに指摘しておいた。
 むしろ古典神話による国津神たちは、高天原にゆかりの天津神の中でも有力な神でありながら、 その秩序を乱して高天原から地上に追放されてしまう須佐之男命(スサノオノミコト)の 系譜に連なる神々なのである。 神話上、互いに姉と弟の関係にありながら、いわば天津神を代表する天照大御神に対して、国津神を 代表するのがこの須佐之男命である。しかも高天原を追われて地上の中つ国(ナカツクニ)に降り立った 場所が出雲であり、この地で大蛇退治などの英雄的なはたらきをして開拓祖神となるにおよんで、 のちの天孫降臨に先立つ中つ国全域の先住豪族たちが各地それぞれに祀る土着の神々、 すなわち国津神たちを率いる出雲大神となったと考えてよかろう。
 だが、名実ともに国津神を代表し統率する地位を獲得する大神は、 須佐之男命の子孫で八十神(ヤソガミ)という兄弟神たちに勝ち抜き、 しかも須佐之男命が試す数々の試練に耐えて大成する 大国主神(オオクニヌシノカミ)にほかならない。
 その理由は、『令義解(リョウノギゲ)』が「天神地祇」を注釈する中で、同じ出雲に祀る2神でありながら、 一方で天津神とする「出雲国造斎神(イズモノクニノミヤツコイツクカミ)」とは須佐之男命を祀る 熊野坐神社(クマノニマスジンジャ)、すなわち熊野大社の祭神であり、 他方で国津神とする「出雲大汝神(オオナムジノカミ)」こそが 大国主神を祀る出雲の杵築大社(キツキノオオヤシロ)、すなわち出雲大社の祭神だからである。
 記紀や出雲風土記によれば、大国主神は、他に大汝神(大己貴神オオアナムチノカミ)、 葦原醜男神(アシノハラシコオノカミ)、八千矛神(ヤチホコノカミ)、顕国玉神(ウツシクニタマノカミ)、 大国玉神(オオクニタマノカミ)、大物主神など多くの神名を持つ。葦原醜男とは、中つ国の英雄をいい、 八千矛とはこの神の武力をたたえた名、顕国玉神と大国玉神とは高天原の天津国玉神に対する中つ国の 地主神のことで、『令義解』にいう国津神の「大倭(オオヤマト)」 すなわち大和大三輪神社の祭神となっている。
 しかも残る同書の国津神「葛城鴨」とは、やはり大和の葛城御歳神社の祭神であり、 大年神の御子で須佐之男命の孫神にあたる神である。 要するに『令義解』の列挙する「地祇」は、すべて須佐之男命の神孫で、 特に大国主神のさまざまな神格を祀る現実の神社の神々に他ならないのである。
 従って、日本の神々を大別する天津神・国津神の分別は、神話伝承の中では、むしろ大国主神による 「国譲り」の段と「天孫降臨」の段あたりから明瞭になるといってよい。
 ◆百八十神と猿田彦神
 例えば、天孫降臨にあたって高御産巣日と天照大御神が、下界の中つ国には「荒ぶる国津神ども」 (『古事記』)が沢山いるとみた、その神々には、「国譲り」の段に登場する大国主神をはじめ、 その御子たちの事代主神や建御名方神(タケミナカタノカミ)などの 「百八十神」が挙げられている。いわゆる「出雲系」の神々は、ことごとく 天津神と建御雷神(タケミカヅチノカミ)と天鳥船神(『古事記』アマノトリフネノカミ) ないし船津主神(『日本書紀』フツヌシノカミ)に屈服して国譲りする国津神たちなのだ、と言うことになる。
 事代主神は、国譲りを受け入れて海中の「青柴垣(アオフシガキ)」に隠れてしまうが、 これを神事として今も毎年再現しているのが、 この神を祀って島根県の美保ヶ関に鎮座する美保神社であり、 また建御雷神らに敗れて信州の諏訪湖近くに蟄居してしまう建御名方神を祀るのが、同地方の諏訪大社である。 なお、国譲りの使命を全うした建御雷神と経津主神とは、 それぞれ関東屈指の大社を誇る鹿島神宮と香取神宮に祀られて、今にいたっている。
 さていよいよ、高天原の主宰神・天照大御神が、 祖神高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)とともに、中つ国すなわち 「豊葦原(トヨアシハラ)の瑞穂(ミズホ)の国」は我が御子が治めよと命じた、その使命を負って孫神の 邇邇芸命(ニニギノミコト)が天降るときに、まず遭遇する国津神が、「吾が国津神」と名のる 猿田彦神である。この神は『日本書紀』神代巻きで「吾が伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到るべし」というように 伊勢に土着の国津神として、同地に猿田彦神社があり、 また中世に伊勢国一宮(イチノミヤ)とされた鈴鹿市の椿大神社(ツバキオオカミヤシロ)の主祭神でもある。
 ただ、「サルタヒコ」の名は、サ(神稲)ル(の)タ(田)を示す稲田の神なので 「狭長田」(サナダ=神稲田)に鎮まり、また出雲国二宮の古社で「サルダ三番」という獅子舞を伝承する 佐太神社の佐太大神と同神ともされて、いずれも眼光が照り輝いたり海上を光って来臨したりする稲田の神なので、 あるいは太陽神アマテラスが女神(オオヒルメ)化する以前に先行する出雲系の太陽男神であったか、 と言う説もある。
 ◆日向三代における天孫の地上化
 このように国津神と天津神、あるいは出雲系と天孫系の神々とは、地上の神社祭祀と関連してみると、 地域的にも系譜的にも錯綜したり重複したりして、その関係は必ずしも定かではない。 そのことは、記紀古典などにおける神代から人代への移行過程、 すなわち「天孫降臨」後のいわゆる「日向三代」における天孫の地上化、あるいは古代王権の成立過程にもいえよう。
 例えば、天孫の邇邇芸命がまず大山津見神の娘である 木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤビメノミコト)と結婚して、 燃え盛る産屋で生まれた御子たちが火照命(ホデリノミコト)・火須勢理命(ホスセリノミコト)・ 火遠理命(ホオリノミコト)。次に山幸彦(ヤマサチヒコ)である火遠理命が 海神の綿津見神(ワタツミノカミ)の娘、豊玉毘売命と結婚して海辺の産屋で生まれた御子が 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)。 またこの命が豊玉毘売の妹の玉依毘売命と結婚して生まれた御子たちが、 彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)・稲飯命(イナヒノミコト)・ 三毛入野命(ミケヌノノミコト)・ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)の4神を 産む。 三毛入野命は常世国(トコヨノクニ)に渡り、稲飯命は海の国に入っていき、末っ子の神日本磐余彦尊は、 大和へ東征して初代の神武天皇となる。
この日向三代を概観すると、まず気づくのは1代目の邇邇芸命が山の神女と、2代目山幸彦の火遠理命と 3代目鵜葺草葺不合命が海の神女姉妹と聖婚して、初めて初代の天皇が誕生することである。 つまり皇祖神 天照大御神が命じた天孫による地上王権の成就には、 まず中つ国にとっての他界を成す山や海の世界をもつ系譜的に組み入れた 神青コスモスの盟主たる資質を獲得することが肝要であり、しかもそれぞれが猛火をくぐり、 海中を旅し、戦いを勝ち抜くという、成人儀礼ともいうべき試練を経て 聖婚する古代王の原型をたどる事に注意しておきたい。
 大山津見や綿津見の2神はともに山の霊、海の霊の神格で、本来は系譜として天津神に連なるが、 伊耶那岐・伊耶那美の地上における神生みによるものとして、むしろ中つ国にとっての他界神、 あるいは天孫にとっては地上に先住する国津神の性格をすでに帯びていると見てよかろう。
 しかし、日向三代を嗣ぐ若御毛沼命、のちの神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)の いわゆる神武東征にあたっては、日向から大和への進路で遭遇する神々は明らかに国津神たちである。 まず豊予海峡で出迎えて水先案内にたつ猟師が、「吾が国津神、名は珍彦(ウヅヒコ)」と名のる のちの椎根津彦(シイネツヒコ)で大和国造の祖神である。次に、宇佐の地で一行を歓待するのが、 宇沙津比古・比賣(ウサツヒコ・ヒメ)と言う宇佐国造の祖神。 東征軍の大和入国を頑強にさえぎった長髄彦(ナガスネヒコ)や、 高天原から建御雷神が天降した霊剣を献上して協力した熊野の高倉下(タカクラジ)、 兄が抵抗し弟が服従した宇陀県の土豪、さらには吉野でも「吾が国津神」と名のった贄持之子(ニエモツノコ)と 井氷鹿(イヒカ)と石押分之子(イワオシワクノコ)など、それぞれ東征軍への対応は違っても、 すべて各地の先住豪族の首長や祖神で、要するに国津神なのである。
 かくして大和に王権を打ち立てた神武天皇が皇后として迎えた女性が、この地の有力な国津神、 三輪の大物主神の御子であったことは注目に値する。『古事記』では伊須気余理比賣(イスケヨリヒメ)、 『日本書紀』では五十鈴姫命(イスズヒメノミコト)という名の皇后は、 摂津国三島郡の豪族の祖先で事代主神とも関係の深い三島溝咋耳神(ミシマノミゾクイミミノカミ)の子女、 勢夜陀多良姫(セヤダタラヒメ)に大物主神(『日本書紀』では事代主)神が通って生まれた神の子である。 つまり、先住の有力な国津神と在地豪族出身の神嫁との間に生まれた神女で、 おそらくは父にあたる国津神の巫女すなわち女性祭主でもある女性を皇后に迎えることが、 天津神の天孫である神武天応が国津神の祭政権を取り込んでの平和的な大和王権の確立であったのである。
 ◆大和王権の祭政一致体制
 はたして神武天皇を嗣ぐ歴代天皇は、いずれも皇位継承にあたって大和地方内外の有力豪族の息女を正妃や 釆女に迎えているが、そのことは同時に、これらの息女たちが巫女として祀ってきた一族の祖神、 すなわち国津神たちの祭政権を天皇の下に集中せしめることでもあって、 大和を中心に支配権を拡大するにあたって、各地に国津神を奉じる在地豪族を平和理に服従させる、 きわめて効果的な仕組みであり、これこそが祭政一致の体制であった。
 やがて7世紀後半に始まる律令国家でいわゆる「神祇祭祀」、 つまり天津神・国津神を統合しての国家祭祀は、このようにして、 はるか大化前代からの大和王権確立への祭政一致の転回をした、その成果に他ならないのであった。

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