九州の熊襲は日本武尊(やまとたけるのみこと)に平定された後、
しばらくは平穏を保っていたが、 またまた謀反をたくらんでいるという。
当時、朝鮮半島南部に任那という国があって、日本と親交を結んでいた。
任那は、新羅と百済の両国に面し、常に平和を脅かされていた。
特に新羅は任那を我がものにしようと 画策するがなかなか思うようにならない。
そこで熊襲をそそのかせて日本を混乱させて、 任那への援助を妨害せんとしたのである。
これを知った神功皇后は仲哀天皇と共に、熊襲征伐への行動を起こした。 ・・・(略)・・・
熊襲の諸将はことごとく降伏して、第1の目的は達成したのである。
かくして次なる新羅進攻の時期を迎えた。いよいよ出陣を決したとき、
神功皇后は次のように、 全軍に厳しい軍律を課した。 |
「小敵とても甘んずるな、強敵にもひるむな、狂暴に抵抗するものは許すな、
服従するものは殺すな、敗退するものには厳罰を処す」 と言う厳しいものである。
かくして全軍が新羅に上陸すると、新羅国王は上陸軍の偉容に驚き、また恐れて、戦わずして降伏した。
軍兵はこれをとらえて殺そうとしたが、
神功皇后は「軍律のあるのを忘れたか」と、 兵士を叱りつけ、新羅国王を救った。
新羅国王は深く感じ、「たとえどんな事があっても、 永久に朝貢を欠かしません」と誓約した。
ここに目的を達した神功皇后は、軍勢をまとめて凱旋したが、 まもなく男子を生んだ。
品陀和気命といい、後の応神天皇である。 |