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主祭神
  帯中津日子命 (十四代仲哀天皇) タラシナカツヒコノミコト
  息長帯日売命 (神功皇后)     オキナガタラヒメノミコト
  品陀和気命 (十五代応神天皇)  ホンダワケノミコト

相殿神
  高御産巣日神   タカミムスビノカミ
  奥津比賣命   オクツヒメノミコト
  奥津日子命   オクツヒコノミコト
  萬幡豊秋津師比賣命   ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト
  久久能智神   ククノチノカミ
  火之加具土神   ヒノカグツチノカミ
  宇気母智神   ウケモチノカミ
  天吉葛神   アメノヨサヅラノカミ
  伊賀古夜比賣神   イガコヤヒメノカミ
  
『相殿神』と記しましたが、現在の社殿には「相殿」は存在致しません。 以前の社殿では、本殿の横に「相殿」が建てられ、そこにお祀りされていた神々です。 現在は、同じ本殿にお祀りしております。
また、建築のページでも記しましたが、 当社社殿の構造は、本殿(流造)・幣殿(両下造)・拝殿(入母屋造) の すべてが一体となった複合社殿の権現造りになっています。したがって、本殿の正面からの写真を撮ると 右上に掲載した写真のように屋内からの写真となります。

主祭神についての詳しい説明は、こちらをクリックして下さい。
相殿神それぞれの詳細な説明は、こちらをクリックして下さい。

応神天皇は、第14代仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた第4皇子で、第15代の天皇です。
つまり当社は、応神天皇(西暦400年前後)と、そのご両親をお祀りしているわけです。

神功皇后や応神天皇がどのようなお人柄であったか、どのようなご功績を残されたのか等については、 古事記や日本書紀を読むことが一番です。
僕自身は、國學院大學での講義で古事記や日本書紀を読む機会がありましたし、 もちろん今現在の「神職」という仕事柄、そういった記紀神話を読む機会も多少なりともあります。 原文を読むのは大変ですから文庫本で現代文訳してある本を読むこともありますね…

ただ普通に考えますと、一般にはなかなか古事記や日本書紀を読む機会が無い方が ほとんどではないかと思います。

とは言え、日本の神話は、「何も無い世界から神が生まれ、日本という国ができる」という本当の神話の世界から 実際に古事記や日本書紀が書かれた頃の現実の世界まで、 一貫して話の中心には、天照大神に代表される天皇家の祖神(ご先祖さま)から初代神武天皇、そして代々の天皇が いらっしゃいます。
天皇制に反対する考え方の皆さんもいらっしゃいますが、それはさておき、 天皇家というご一家が、神話の世界から現在までとぎれることなく続くと言う事実は、命の継承・親子の絆 といったものを具体的に実感できる生きた証だと思います。

その辺りが、諸外国の神話と大きく異なる点だと言えるでしょう。 日本の神話や神様に関するわかりやすい本が各出版社から出ていますので、 興味があれば読んでみられても良いかと思います。
御祭神の説明については、「古事記」や「日本書紀」等の本文の掲載が筋ではありますが、 わかりやすくなくては意味がないと思っております。
なので、ここでは、

学研「エソテリカ事典シリーズ②日本の神々の事典」
  (監修 薗田稔 茂木栄)
日本文芸社「日本の神様を知る事典」
  (監修 阿部正路)

を引用または抜粋要約し説明させていただいております。 なお、文書引用については、学研並びに各執筆者の 先生方から快諾を得ることができ、 大変感謝しております。
誠に有り難うございました

神功皇后
熊襲反乱の平定の途路、仲哀天皇9年に天皇が亡くなると、 神功皇后は天照大神、住吉神等の託宣を得て、三韓の攻略に出発する。
熊襲の背後に新羅が控えていると予想したからである。

戦前の国定教科書(初等科国史)には、
「音に聞く日本の船、神国のつわものにちがいないと思って、 王はすぐさま皇后をお出迎え申し上げ二心のないしるしに、毎年必ずみつぎ物をたてまつることを、 堅く誓いました。・・・この後、熊襲がしずまったのは言うまでもなく、 百済や高句麗までも、 わが国につき従いました。」
とある。

神功皇后が実証史学的に実在の人物であるかどうか証明されていないが、 高句麗王の広開土王の石碑文にも倭人を撃退した記述がされている。

また、神功皇后の遠征への出発地であった長崎県壱岐島では、全島に神功皇后にちなんだ伝説があり、 勝利を祈った北端の勝本には、神功皇后を祀る聖母神社が鎮座している。 今でも、壱岐には神功皇后の 「足跡」が残されているのである。

皇后は筑紫に凱旋すると、御子を産み落とした。 これがのちの応神天皇である。
(学研 「エソテリカ事典シリーズ②日本の神々の事典」茂木栄)

九州の熊襲は日本武尊(やまとたけるのみこと)に平定された後、 しばらくは平穏を保っていたが、 またまた謀反をたくらんでいるという。
当時、朝鮮半島南部に任那という国があって、日本と親交を結んでいた。

任那は、新羅と百済の両国に面し、常に平和を脅かされていた。 特に新羅は任那を我がものにしようと 画策するがなかなか思うようにならない。 そこで熊襲をそそのかせて日本を混乱させて、 任那への援助を妨害せんとしたのである。

これを知った神功皇后は仲哀天皇と共に、熊襲征伐への行動を起こした。
・・・(略)・・・
熊襲の諸将はことごとく降伏して、第1の目的は達成したのである。 かくして次なる新羅進攻の時期を迎えた。いよいよ出陣を決したとき、 神功皇后は次のように、 全軍に厳しい軍律を課した。
「小敵とても甘んずるな、強敵にもひるむな、狂暴に抵抗するものは許すな、 服従するものは殺すな、敗退するものには厳罰を処す」
と言う厳しいものである。

かくして全軍が新羅に上陸すると、新羅国王は上陸軍の偉容に驚き、また恐れて、戦わずして降伏した。
軍兵はこれをとらえて殺そうとしたが、 神功皇后は「軍律のあるのを忘れたか」と、 兵士を叱りつけ、新羅国王を救った。

新羅国王は深く感じ、「たとえどんな事があっても、 永久に朝貢を欠かしません」と誓約した。
ここに目的を達した神功皇后は、軍勢をまとめて凱旋したが、 まもなく男子を生んだ。

品陀和気命といい、後の応神天皇である。
(日本文芸社 「日本の神様を知る事典」)
三韓の攻略に出発し、目的を達したことから、戦の神様であるとか、 凱旋中に無事応神天皇をお産みになったことで、安産の神様と言われます。

応神天皇
日本書紀に、
東国の蝦夷の朝貢があったこと、吉野宮に行幸した折に国樔(吉野川上流の住民)が 酒や土地の物を献上したこと、吉備の国を分割・編成して子らに治めさせたことなどが記されている。
・・・(略)・・・

国を統一した建国の天皇である。
・・・(略)・・・
応神天皇母子の時代は統一国家の強化、三韓文化の流入など 国家体制の確立していく時期に当たる。
歴史家の多くが応神天皇期をもって 歴史時代が始まると説く所以である。
(学研 「エソテリカ事典シリーズ②日本の神々の事典」茂木栄)

応神天皇は、率先して外国の文明開化を取り入れた、大和朝廷の傑出した文化人指導者である。
・・・(略)・・・
応神天皇の治世は、日本に新たな文学、産業などの文化を招来させたすぐれた元首である。
すなわち、わが朝廷に使節としてきた百済王の子阿直岐が、文学に精通し、 経典を修めていたので、 応神天皇はわが子稚郎子の師とした。

ある日、天皇は阿直岐に向かって、「汝よりすぐれた学者がいるか」と問うと、 「王仁(わに)と言うすばらしい学者がおります」と答えた。
そこで天皇は王仁を招くことを決め、 ただちに荒田別、鹿我別の二人を百済に派遣した。 応神天皇の招きに応じた王仁は、百済・新羅から縫工・織工・鍛工、船匠などのすぐれた 技術者を伴って来日(西暦400年)し、携えてきた論語10巻と千字文1巻を朝廷に献上したという。

王仁はそのまま日本に帰化した。またその頃の大陸は呉の国の時代で、 産業・文化にすぐれていたので、 応神天皇はこの国の織物・裁縫の技法も導入しようとして、 阿知使主、都加使臣の2人を使節として派遣した。
呉王は喜んで使節を迎え、その申し入れを受け入れてくれたので、 阿知使主ら一行は、養蚕、紡績、織物、 裁縫などのすぐれた技術者を連れて帰った。
(日本文芸社 「日本の神様を知る事典」)
とあります。先進文化文明を積極的に取り入れたことから、学問の神様とも言われます。


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