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日月の紋
二つの輪を横にずらした輪違いの紋で、文明年間(15世紀半ば)より当社の紋となりました。
八幡社の定紋は三つ違が本来でしょうが、当社は輪違いの二つ丸となっています。

文明年間(1479年〜1486年)九代神主清五郎(五郎次郎)能賢の頃、 当時の土豪・山本甲斐守(安藝武田氏に随い、武田氏が後に大内、毛利の両氏に攻められ亡ぶ迄、 呉浦に勢力を持つ)の次男で、武勇をうたわれた鶴若君に、或る戦いに勝利し凱旋の折、 報賽(御礼・感謝)として日月の紋を打った御太刀一口と白羽の箭を奉納されています。
此の日月が当社の輪違いの二つ丸の紋となりました。

宮司家である太刀掛家では、代々に三つの異なった定紋を使っていたそうです。
 一つは、社紋である輪違い2つ丸紋。
 一つは、橘朝臣ということで橘紋。
 一つは、24代志摩守信篤の婦人であるセツ子の里方の紋である下り藤。

橘紋についてですが、太刀掛家は平城天皇の流れを亨けて、 代々橘姓(太刀掛周防守橘守孝と言ったかんじ)であり、中途藤原姓(太刀掛右衛門大夫藤原重久、と言ったかんじ) を称したこともありますが、其の後また橘姓に復帰して、代々朝廷より従五位下の位階を賜っております。

下がり紋については、信篤婦人セツ子は歴代中の賢夫人として、 信篤を助けて社務に励み、海軍用地として接収され移転するまでの (明治19年(1886年))鎮座地の御社殿は信篤、セツ子夫人の折に建立されたと言われております。
また、文化年間(11204年〜1817年)、呉地方に大飢饉が起こりました。
この大飢饉では、藁まで食べ、灰ヶ峰の麓は草を抜き取られ赤裸になったと伝えられております。 (榎の葉を食用にし、後々その榎を信仰の対象にするほど大変だったそうです)
この飢饉の折り、セツ子夫人は御供米制をつくり、米を持つ家からその名目で寄進させ、 食べ物に困っている氏子の人々にわけたそうです。 村人達がこの事を得として崇めてその実家の紋を定紋の一つに加えたと言われております。

歴史>由緒のページにも記載したとおり、 呉宮原村字亀山(現在の入船山記念館の所)の地への御鎮座は、 文武天皇大宝三年(703年)八月中旬と伝えられています。
現在まで約1300年の歴史の中で、社号も時代と共に変遷してきました。 以下、歴史的にいつ頃その社号で呼ばれていたか不明な社号もありますが、記載致しましたので、ご覧下さい。

【日売島神社】 ヒメシマジンジャ
大分県姫島の神が天武天皇白鳳八年(679年)栃原村甲手山に天降り給ひ、後、 亀山に遷座との古伝あり、
のとおりで、発祥の地の名前をとった社号です。

瀬戸内海東航の途次、何れかの都合でこの呉の地に「姫島」の神を崇める一族が住みつき、 各地に集落をつくったようです。その人々は、技術文化の面でも時代の要求にこたえる先進技術を (農業、造船業、鍛冶、採鉱技術など)をもたらし、生活程度も拡大し、集落もまた拡大したに違いありません。

前出の久保田氏は、
「先住者は、先進技術の所有者達を神人として歓迎し『客人信仰』を生み、 民間信仰と定着していった。他の職業階級と

違った不可思議の存在だったろう鍛冶技術者などは特に。 彼等の造った鏡とか鈴などは霊物であり、(この金属性器具の)鏡の前で、 この鈴を振って神意を尋ね伝える巫女の姿は神の姿と思えたに違いない。」 と言っておられます。

白鳳八年(6120)年に栃原村に天降り給うた「姫島神」を尊崇する集団は、 前例のない多人数、多くの技術者を伴っており、彼等は近隣各地に分散して、 自分たちの持つ技術を充分に発揮し、土地開発と技術向上に努めたと思われます。
1年に1度の、彼ら技術者達の集いの場所は、「姫島神」の神の鎮座の甲手山で、 その度毎に祖先の祭を催したのでしょう。そして祭祀と技術の密なるつながりを持ちながら、 日売島神社という名で祀られはじめたのだと思われます。

【大屋津日売神社】 オオヤツヒメジンジャ
大屋津日売とは、家屋・木の神の名で、この頃の呉地域の中心産業が木に関わる産業であった事の表れと言えます。

紀伊の國の古社、大屋都姫神社に神階授進のあったのは仁明天皇嘉祥三年(850年)ですから、 神階授進以前の創建はずっとさかのぼると思われます。
この神は素戔嗚尊の神女で、五十猛命の妹神です。この神を日本書紀は

「五十猛之命(素戔嗚尊の一子)、天降りますとき八十樹種を持ち下られたが韓国には植えずして、 妹神と共に筑紫より始めて、すべて大八嶋國のうちに播きおほして青山になさずといふことなり。 故に五十猛之命を讃えていさほし有功神となす。すなわち紀伊國に座す大神なり」

と、述べられています。 この故に大屋津比賣神は木の神であり造船神と崇敬されております。
また、住家、船車、木具、薪炭等、農林の御恩頼の神として、往古より広く他国にも尊敬されております。 呉のまちが船材豊富な山々に囲まれていた故に、 この神を祀り「大屋都比賣神社」の社号を残すことになったのでしょう。

天智天皇の御代には日本水軍が朝鮮白村江で敗れ、新羅、 唐の連合水軍の侵攻に備へ西海から瀬戸内海に防人、烽を置き水域を築くが、 建艦も急を要したと容易に想像できます。
皇極天皇元年(642年)、「諸国に課して船舶を造らしむ。」 続いて孝徳天皇白雉元年(650年)、 二隻の建造を指揮のため倭漢直等三人が安藝國に遣わされております。(日本書紀)

こうした国家非常の折、比賣志摩神社は栃原甲手山に鎮座(6120年)、 その後20年程で大寶三年(703年)に宮原村に遷座され、木の神、造船の神として 「大屋都比賣命」を御主神として大屋都比賣神社という社号が生まれたのではないでしょうか。
そしてまた、造船着工、進水の度に大屋都比賣神に祈願し、 奉告感謝の祭典が厳粛に行われる様になったのでしょう。
ちなみに造船を思わす「船木」の地名が安藝國には三つあり、うち一つは呉の惣付に残っております。

【鈴音宮】 スズオトノミヤ
神まつりに、「巫女」の存在は欠かせません。巫女は朱丹をもって顔に塗り、 丹摺りの衣で体を包み、鈴を振り、玄妙な音にあわせて舞う巫女の姿は、 祈る者として厳粛の念をかきたてられたに違いありません。

後述の、神功皇后による三韓征伐では、神秘で神聖な朱色を塗った軍船が、 神を迎え神の出現を示し、国に仇なす輩を征伐することを祈らしめたでしょう。
この朱丹は、栃原から神山を経て呉浦に入る入り際の集落、惣付に鎮座される丹神社 (御祭神は邇保都比賣命)の分霊をお祀りする、宮原村字宮原の姫神明神に依り供出され、 鈴は聖御子神社の神人の製作になるものと推測できます。

神衣については、亀山神社由来傳に

「鹿田より調進奉り其所に狭井元社ありて荒衣和衣を織り出しチキリカネリの 瀧にてさら晒し清め冬夏の御神衣を奉りける」

と記されております。
チキリははた機の付属具で縦糸をまく「をまき」のことで、 ここでは織機の意と思われます。カネリはカトリの書き誤りと思え、 カトリとは織物の一種で、細糸で目細かく堅く織った絹糸のことだそうです。
この文章は、鹿田にある狭衣の社で神衣を織り、赤色で型染めした丹摺りの巫衣を、 近くの谷間(現在の吾妻川か?幅二米程の小川)の瀧で晒し清めたといっているのではないかと推測しております。

この狭衣の社が、後の平原神社となり、氏子の中の中塩氏(現亀山神社・平原神社総代)に 残る伝承では、 栃原より呉遷座の折、供奉した人々の末裔で供奉の七軒家と称され、 亀山神社・平原神社のお世話に現在も献身的です。

文書が現存しないのが残念ですが、貴重な伝承と思います。 かうして丹塗りの艦船の製造が順調に進んだ或年、大屋都比賣神社の社名が鈴音宮と 改められたのではないかと思われます。

その後、古事記や日本書紀などにも、応神天皇や神功皇后の三韓征伐のお話があるとおり、 この八世紀から十世紀にかけての中国大陸、朝鮮半島諸国など日本周辺地域にて国際関係は緊張状態にありました。

日本と親交を結んでいた任那を攻めようとする新羅を攻略するために朝鮮半島に軍を派遣し、 見事に勝利し凱旋帰国したとされております。
皇室有縁の神であり国家鎮護の神であり 新羅を征する武神は神功皇后(三韓征伐を敢行された)と、その子である応神天皇以外にないわけで、 このあたりが、全国的に八幡信仰が流行?して、各地の神社で、八幡神である神功皇后や 応神天皇をご祭神にくわえられるようになった理由と思われます。

そして社号は、

【大帯日売神社】 オオタラシヒメジンジャ
大帯日売は、当社の主祭神である神功皇后の別名です。 丹塗りの軍船で三韓征伐に船出された神功皇后(大帯比賣神)の功をお称えし、 恩頼におあづかりしようと、社号が「大帯比賣神社」に改まることになったのでしょう。
【八幡宮】 ハチマングウ
八幡宮は、応神天皇、神功皇后のお二人をお祀りする宮の総称のようなものであり、 当社が八幡宮と称されるのは、推測すれば、宇佐神宮に「三之御殿」が完成した弘仁14年(822年)より 貞観18年(876年)間のことかと思われます。

【皇城宮】 コウジョウグウ
寛政十一年(1799年)に奉献された燈籠(現存しています) にこの社号が残っています。
(この燈籠にもある当社の神紋「日月の紋」は、文明年間(15世紀後半) よりといわれ八幡宮の神紋としては例の少ない

ものであると言われています)神紋のページを参照下さい。
なお、呉駅前の阪急ホテルの一番大きい宴会場は「皇城の間」と名前が付けられておりますが、 皇城宮の名からお取りになられたものです。

明治維新の際「亀山神社」と改称されました。
始めに記載した3つの社号は特にそうですが、神功皇后をお祀りするようになった経緯などもあわせて、 社号には、常に地域の生活と密着した心の故郷の姿がうかがえます。

ここで掲載する内容は、
  「廣島縣の神社建築」 (編集発行:広島県青年神職会、監修:広島大学教授三浦正幸先生)
の当社の欄を そのまま掲載しました。

この本は、前半には、広島県内106社の社殿もしくは本殿の正確な図面や、 建築に関する専門的な説明が、後半には広島県の神社建築の歴史的な推移まで言及した総論が 掲載してあり、神社建築・古建築に興味のある方にとっては、堪らない本ですね。
一般には出回っていないので、興味のある方はご一報下さい。

由緒のページでも掲載しましたが、当社はもともとは 現在の入船山公園(呉市幸町) の場所に鎮座していました。古文書に記載してあるだけでも、
   文治5年(1189年)
   正和元年(1312年)
   天文3年(1534年)
等に社殿の造営があったようです。
明治19年(1886年)になって、鎮座地が海軍の呉鎮守府用地とされ、 明治20年(1887年)に 現在地(呉市清水1丁目)に遷座しました。 昭和3年に火災、昭和20年に戦災に遭い、現在の社殿は 昭和30年に再建されたものです。

社殿建築の概要
本殿 ・・・三間社流造(ナガレヅクリ)銅板葺(ドウバンブキ)
幣殿 ・・・両下造(マヤヅクリ)、銅板葺
拝殿 ・・・桁行(ケタユキ)五間、梁間(ハリマ)四間、 入母屋造(イリモヤヅクリ)、 平入(ヒライリ)
向拝(コウハイ)三間、銅板葺
弊殿・拝殿
社殿の構造は、本殿(流造)・幣殿(両下造)・拝殿(入母屋造) のすべてが一体となった複合社殿の権現造りになっています。

鉄筋コンクリート造りには珍しく、日本の伝統的建築様式 (和様ワヨウ)に則ったつくりとなっています。

屋根部分は二重構造で、下段を檜皮葺(ヒワダブキ)・ 上段を銅板葺きとした二重軒積(ニジュウノキヅミ)であり、 きわめて正式な銅板葺き屋根です。
妻面では、 豕扠首(イノコサス)虹梁(コウリョウ)大面取り(ダイメントリ)舟肘木(フナヒジキ)を用いてあり、 本殿庇(ヒサシ)部分に設けられた出入り口には、 竹節欄間(タケノフシランマ) のついた脇障子の形が使われている。
これらはいずれも、平安時代から室町時代に流行した 和様建築の正式な形であります。
京都の上下賀茂神社の建築様式を基にしているものと言え、広島県を代表する鉄筋コンクリート造りの社殿であります。

建築用語の説明

銅板葺 ・・・ 銅板で葺いた屋根。比較的耐久性があり、細工が利き自由な曲面で葺けるため 本殿に良く用いられる。大正時代以降、檜皮葺や柿葺の代わりに多用される。

柿葺 ・・・ コケラブキ。檜やサワラなどの木材を割って作られた厚さ一分(3ミリメートル) 程度の柿板を並べ、竹釘で留め、何段にも重ねて葺いた屋根。中世の本殿に多く使われた。

檜皮葺 ・・・ 格式の最も高い建築に用いられる日本古来の屋根。檜の皮を何重にも重ねて葺くもので、 曲面を自由に作ることが可能なため、照りや起り (ムクリ) のある優雅な屋根とすることができる。 特に格の高い本殿に使われた。

流造 ・・・ 切妻造の平入の正面に庇を設け、屋根の前半が長く流れ出た形式。 奈良時代から平安時代初期に成立した形式で、最も普遍的な本殿形式である。広島県では、 旧安芸国において多用された。

切妻造 ・・・ 両端を切り取ったような形で終わる屋根。最も簡単な屋根形式であるが、 神社本殿の基本形である。

入母屋造 ・・・ 切妻造の両端部の下方にも垂木を配して屋根面を設けた屋根形式。 両妻面の屋根上に妻壁ができる。本来は寺院建築のものであったが、平安末期になって 神社本殿にも使われるようになる。広島県では旧備後国の本殿に多用された。

照り・起り ・・・ 「照り」とは、下方に向かって反った屋根で、本殿形式の基本的形式。
「起り」とは、上方に向かって丸く持ち上がった屋根で、数寄屋造りの基本形式。

豕扠首 ・・・ 和様の形式で、棟木下で左右から斜めの材を拝み合わせ、その下に中束を立てる妻飾。 室町時代前期までの本殿のほとんどが豕扠首である。

虹梁 ・・・ 虹のように中央部を持ち上げたように見せる(実際にはほとんど水平になる) 社寺建築に特有の梁で、様式によって断面などが異なる。両端に袖切、 下面に錫杖彫を施す 唐様のものが多い。端部の渦が太く複雑なものほど時代が降る。

袖切 ・・・ 虹梁の端部で厚みを薄くした部分。通常は虹梁端部下方を三角形に削り取る。 本来は唐様建築の手法であるが、江戸時代になると和様建築の大部分にも応用された。 江戸時代のものは曲線を描く。

錫杖彫 ・・・ 虹梁下面に施す溝状の彫刻。通常は両端に丸め、入隅形とする。 唐様及び天竺様の虹梁に用いられる。

大面取り ・・・ 柱の角を大きく削り落とし、大きな面を作ること。一般的には室町時代以降の手法である。

舟肘木 ・・・ 舟形の肘木(組み物を構成する基本要素で、水平に伸びた棒状の部材)を柱状に直接乗せ、 桁を支える最も簡単な組物形式。斗を用いない日本古来の形式で、 鎌倉時代以前の本殿にも使われ、明治以降は復古調の様式の本殿で多用された。

竹節欄間 ・・・ 竹の節状に横筋を彫って短い親柱とし、親柱間に桟をたすきに架ける。 本殿では脇障子の上に用いられる。

脇障子 ・・・ 廻縁の端部に設ける仕切。縁の先に角柱を立て、笠木を乗せて主柱と繋ぐ。 板戸を入れ、笠木の上に竹節を載せる。ほとんどの本殿に使われる。

廻縁 ・・・ マワリエン。建物周囲に巡らす縁。本殿に多く用いられ、高欄(手摺)を廻し、 正面に木階(木でできた階段)が付く。 高床式の建物に使われ、実用よりも飾りや格式のために設けられる。


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